2021.12.07
富士山を描いた画家 横山大観
日本の代名詞ともいえる富士山と桜は、昔から多くの芸術作品のモチーフとなっています。皆さんも桜や富士山を描いた作品を一度は見たことがあるのではないでしょうか?その中でも、富士山といえば大観、大観といえば富士山とも言われることがある横山大観を紹介させていただきます。
朦朧体を確立させた大観
横山大観は、江戸幕府が終わり新時代へと移り変わる明治元年の1868年に水戸藩士の息子として生まれました。学齢時代から絵画に興味を抱き、1889年に東京美術学校に第一期生として入学を果たすと、岡倉天心や橋本雅邦の薫陶を受けて才能を伸ばしていきます。また、この時の同期生には下村観山、第二期生には菱田春草といった画家もいました。美術学校卒業後、仏画の研究を始めつつ京都市立美術工芸学校予備科教員として働き始めた頃から雅号「大観」を用いるようになります。
やがて、菱田春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな表現の研究を重ねた大観は「朦朧体」と呼ばれる画法を確立させていきます。春草と共に海外に渡り展覧会を開催した大観の作品は高い評価を受け、国内でも人気を博していく事となります。そうして日本画壇の重鎮となった大観は第1回文化勲章の受賞者ともなり、太平洋戦争下においてはアドルフ・ヒトラーへの献呈画を描くこともありました。
生涯で1500以上の富士を描く
熱烈な勤王派であった父と、思想家としても著名であり国粋主義者とも称された岡倉天心を師に持つ大観自身も国粋主義的な面を持っていたことは、日本の象徴である富士を好んで題材にしていたことと無関係ではないでしょう。しかし、多くの富士を描きながらも大観が描いた富士に同じものはないと言われています。絵を描く際は自分が実際に見た風景や姿かたちを描くことが多いものですが、大観が描いた富士は大観自身が頭の中や心の中で思い描いた富士を表現したものだと言われています。日本の象徴である富士を大観は神秘的で尊いものとして捉えており、それ故に中途半端な気持ちや気分が優れない時には描くことはなく、精神を集中して神聖な気持ちでいられる時にしか描こうとしなかったそうです。
昭和33年(1958年)89歳で亡くなるまでに描いた富士の数だけでも1500以上と言われている一方、大観のタッチは独特でありながらも模倣しやすいと考えられ、大観を騙って地方で食客となって渡り歩く無名画家が多数存在しました。そのせいもあって贋作が非常に多い作家としても知られています。もし、ご実家に大観作と伝わる作品があれば弊社ではご相談だけでもお受けいたしますので、お気軽にお問い合わせください。